瞑想のときの雑念

———— 瞑想を始めてみたけれど、雑念ばかり出るので、自分には瞑想はできないと思いやめてしまった ————

という方が時々いらっしゃいます。
瞑想というのは、「無にならなければいけない」とか、「雑念が出てはいけない」、「何も考えてはいけない」ものだと思っていて、それができていないと、「自分は、瞑想ができていない」と思ってしまうようです。

初めから無になるというのは、無理なことです。
雑念は、瞑想を何十年やっていても出てきます。

「無にならなければいけない」、「雑念が出てはいけない」と思って瞑想をすると、湧き出てくる感情や思いを押さえ込んでしまうことになります。

感情や、思い、思考は、押さえ込まなくていいです。
湧き出てくる感情や思いを、眺めて観るようにして、出てくるままに流しているようにします。
それに引きずられているなと思ったら、意識をもとに戻します。

そうしている中で、湧き出てくる感情や思いに、毎回同じように出てくる感情、思いに気がつくことができたら、今度はそれを観ていきます。
そこから、「自分」を作っているものを解いていくことができます。

何も思わないようにと押さえ込むのではなく、むしろ、感情や思いを解放するような気持ちでいると、自分というものを作っているものが、感情、思いとして浮かび上がってきます。
感情や思いが湧き出てくるときは、「自分の解くべきもの」が表面に浮かび上がってきていて、解く準備ができているのだと思ってください。

感情や思いを押さえ込んでしまうと、自分の内にある、「解きたいもの」を知ることができません。

そうやって、自我を解いて、「自分」がなくなっていくと、しだいに、瞑想を行なったとき、雑念も少なくなっていきます。
個である自分が何もない状態が、無の意識です。
「無」になるためには、個を捨てなければいけません。

ですから、自分というものをたくさん持っているうちは、「無」になりきることは難しいことです。
自分というものがたくさんあるから、雑念もたくさん出てきます。

宇宙に自分のすべてをゆだねるようにするのもいいですね。
体と心の力をすべて抜いて、自分のすべてをゆだねる。
そうすると、雑念はあまり出てきませんし、非常にリラックスします。

ゆだねるということは、自分を捨てて、全部宇宙あるいは神様にお任せするということですから、そこには、「自分」というものがなくなります。
本当の意味で、すべてゆだねることができたら、そこには、個である自分がないので、それは、「無」であるといえます。



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