山桜いろの春 I

ー会津が山桜いろの光に包まれて、幸せに満ちることを願ってー
「戊辰戦争のお浄め 鶴ヶ城」

 

会津の地

会津若松駅の駅前バスロータリーを渡ったところに、交差点の地下通路に降りる階段がある。
初めて会津若松市に来てその階段を降りたとき、十数人の武士が左右からこちらを見ていた。

「会津若松は武士の霊が多いところだ……」

そう思った。
しかし、そのときはまだ、それから先何十万人という武士や戦死者のお浄めをすることになるとは、考えもしなかった。

1999年の秋、わたしは主人と二人で福島県の会津(注1)の山奥に住むようになった。
その10年ほど前から山に行きたいと思って探していた。
当時は東京の国立市に住んでいて、探している場所は住んでいるところよりも北にあるように思えたので、都内の北部や多摩地区の山を探してみたが、場所は見つからずにいた。

時期になったら場所が出てくるだろうと、ほとんど忘れてしまっていたころ、ご夫婦のことで相談にいらした女性のご主人が会津の方で、その方の霊的なことを観ているうちに、探していた山は福島県にあるかもしれないと思えて探してみることにした。

福島県の地図を見ると、探している場所はこのあたりにあると思えるところがあり、それが会津の奥まった山だった。

借りられる家を探すため、会津地方の数件の不動産会社に電話で問い合わせていると、その中の1件の社長が、

「自分が住んでいた実家の山の家ならある。そこは貸してもいい」

という。

わたしは他の不動産会社の2件の候補地を選んで、計3件の家を見せていただくために会津に向かった。
会津若松市に初めて来たのはこのときだった。このとき地下通路を降りて武士の霊を観ることになったのだった。

最初に案内していただいた2件は、条件がまったく合わなかった。
3件目の社長の実家を見せていただいた。

喜多方市から車で山に入っていくと、対向車とかろうじてすれ違うことができるくらいの幅の道が山肌に沿ってカーブしながらつづき、片側は山の斜面、反対側は百メートルほどの切り立った崖になっていた。

そこを社長は鼻歌を歌いながら、街中で走るのと同じスピードで走っていく。
わたしは初めて通る道でもあり、こんな崖が迫っている細い道をスピードを出して走ったことがなかったので不安に感じ、

「崖に落ちたりしないんですか ?」

と聞くと、社長は、

「大丈夫だよ。慣れているから目をつぶってでも運転できる。ハハハ」

と笑っていた。

途中には民家も街灯も一切ない一本道を、喜多方の市街地から30分ほど走ってきたところで、前方にトンネルの形をした雪除けシェルターが見えてきた。
そのシェルターを越えたところが、見せていただく家がある部落だった。

社長の家は部落の中ほどの傾斜地にあったが、使われていなかったため、家の回りは腰丈まである草が生い茂っていた。
草をかきわけながら家にたどり着き、家の中をひととおり見せていただいた。

帰り際、玄関から出て、

「もう一度、山を背景にした全体を見てみよう」

と思い、山側に向かってクルリと振り返ると、その家の全体が、透明なドーム型のエネルギーにポッカリと包まれるようにして守られていた。
それを観て、「ここで間違いない」と確信して、この家をお借りすることに決めた。

この家の場所は、初めに福島県の地図を見てこのあたりにあるだろうと思えた、まさにその場所だった。

※注1 「会津」
福島県は奥羽山脈と阿武隈山地を境界として、太平洋側から「浜通り」、「中通
り」、「会津地方」の3つの地域に分けられています。
会津地方は盆地で、夏は暑く、冬は豪雪になります。中心地は会津若松市。

鶴ヶ城

お浄めは鶴ヶ城(正式名称 若松城)から始まった。

会津に来たのは、もともとは別の目的のためだったが、あまりにも武士の霊が多いため、お浄めをせざるを得ない状況になってしまった。

会津の代表的な建物である鶴ヶ城。
そのそばを通ると、もっとも初めにお浄めをしなければいけない場所であることはすぐにわかる。

会津に越してきて間もなく、鶴ヶ城の周辺の東西南北の場所で車を止めて、車の中からお浄めを行なった。
その後本丸の天守閣の中に入り、城内をひととおり見て回った。

五層の、展望台になっているところからは、会津若松市街地や会津盆地、磐梯山が一望できる。
このときは春先であったが、数百年前もこの五層から眺める、降り積もった雪で真っ白になった天守閣の敷地や木々にひらひらと舞い降りる雪の景色は、さぞ美しかっただろうと想像ができた。

鶴ヶ城は周りをお堀で囲まれていて、東側に二の丸に通じる廊下橋が架かっている。
この橋は、葦名時代に屋根が付いた廊下造りだったので廊下橋と呼ばれているが、
加藤時代に廊下を壊して、現在のような橋だけになったそうだ。

天守閣を出て廊下橋を渡り二の丸に来たとき、その橋の上や、あたり一帯で大勢の武士たちが戦い、切られてお堀に落ちた人々の血でお堀が真っ赤に染まったのが観えた。

そして、この戦いは『戊辰戦争』のときのものであるということがわかった。

このときから、わたしのところには戊辰戦争で亡くなった武士や庶民の霊が大勢来るようになった。

朝起きて、瞑想と戊辰戦争で亡くなった人々のお祈りを行ない、昼食をとるとすぐにまたお祈りを始めて夕方まで行なう、という毎日がつづくようになった。
次から次と、途絶えることなく霊は来るので、一日中お祈りをしていなければならなかった。その人数は、あまりにも多かった。

山を降りて喜多方市や会津若松市に行くと、街の中のどこに行っても、ほんとうにたくさんの武士や戦死者がいて、その霊を連れて帰ってきた。

その苦しみ迷って成仏できずにいる人々は、戊辰戦争のときの人だけではなく、それ以前の戦国時代の武士や戦死者も含まれていた。
そのため、お浄めは会津地方にとどまらず、近隣の地域や県もお浄めをして回る必要があった。

ひとつの部隊として戦っていた50人以上の人々が、部屋に座っていたこともあった。そのときは、大勢の兵士は輪郭だけの半透明のように観え、その中にひとりだけ、頭と思われる人がいて、その人だけ着ているものや顔がはっきりとわかった。
その頭が「自分たちの苦しみを救ってほしい」といっていた。
お祈りをしてさしあげると、頭は、

「かたじけない」

といって、その部隊は部屋から消えた。

長く続く人々の列

部落の入口にある雪除けシェルターからわたしの家までは、150メートルほどあった。
この家をお借りすることが決まって、まだ東京にいたときに、シェルターから家の玄関まで、大勢の人がうなだれるようにして一列に並んで家に向かって歩いている光景が観えていた。

そのときは、一列に並んでいるのが生きている人なのか霊なのかはっきりわからなかったが、この家に住むようになって、それは苦しみから救われたいためにお祈りとお浄めをしてもらいに来ている霊の一列であることがわかった。

その列は途切れることがなく、毎日々々、数年の間つづいた。

武士や民間の戦死者は、戦いで負傷したり殺されたときの痛みや苦しみ、無念や憎しみや虚しさの思いを持ったままでいる。
そのような人は希望も気力もなく、心が暗い中に落ち込んで執われたままになってるので、わたしもその影響を受けて、まるで「うつ」症状のようになってしまうことがある。

気持ちは暗くて重く、体も重くて動かず、何もやる気がしなくなり、しだいに感情も反応もなくなっていき、何をやっても楽しいと思えない。

そんな状態が2~3日続くと、

「オヤ? おかしい、これはわたしのいつもの意識状態ではない」

と気がつく。
そして影響している霊のお祈りをすると、その暗く重たい状態はなくなり、いつもの自分の意識状態にもどる。
気がつかないでいると、自分も「うつ」のような状態のままになってしまう。

苦しんでいる霊は次から次と来るため、お祈りは午前中から始めても夕方までかかってしまう。
そんな毎日がつづいていると、夕方お祈りが終わるころには、エネルギーを使い果たして空腹になっているため食事を摂りたいと思うけれど、疲れきっているうえにエネルギーもなくなっているので、体を動かす気力と体力がない。

うなだれたままで、体を動かすことができない。
それでも食事を作らないわけにはいかないので、這うようにして台所にいき、重たく疲れきった体と頭でなんとか食事のしたくをするが、こういうときが一番辛く大変だった。

救われたいと思って来る人々があまりにも大勢であるため、わたしの体は圧されるように重く、それまで毎日行なっていたヨガのアーサナすらも、体を動かすことが苦痛になってきた。

体の不調は毎日つづき、数年たって1日だけ影響を受けない日があると、「あぁ、これがわたしの本来の体の状態だなぁ」と思う。
あまりに長いあいだ体調の悪い、重たい状態がつづくため、自分の本来の体調がわからなくなってしまっていた。

しかし、そんな快調な日も1日だけで、次の日からまた大変な日々がつづく。
ほんのちょっとだけ、神様が息抜きのために休ませてくださっているという感じだった。

これだけ多くの武士や戦死者の霊がいたということは、この地で生活している人々も、霊的な影響を受けていることが原因で、体や心の不調や苦しみがあったり、家庭内で言い争いやトラブルが起きていた人は多かっただろうと思う。

武士は気性が激しく闘争心や攻撃性が強いため、その影響を受けるとちょっとしたことにも非常にイライラしたり感情的になったり、荒々しい気持ちになったりする。
切られたときの痛みや苦しみに強く執われている場合は、その影響を受けた人は同じ部分に痛みや不調がでることがある。

また、肩や首、背中や頭が痛くなったり、体の色々な箇所に病気のような症状がでてくることがあったり、気持ちがひどく落ち込んで、自分には先がないような気持ちになったり、何もする気がなくなって滅入ってしまうことがある。

病気ではないかと思って病院に行って検査をしてもどこも悪くない、というときは霊的な影響を受けている場合が多く、それは病院で治療をしたり薬を飲んでも治るものではなく、霊のお浄めすると、その症状はすぐになくなる。

お礼の野菜

会津ではご自宅で野菜を作られているご家庭が多く、トマトやナス、大根、キュウリなどをたくさんいただく。
たくさんいただくので、トマトを加工して冷凍保存しておきたいけれど、お祈りで疲れている体には大量のトマトを処理する作業はとても辛いときもあった。

あるとき、菓子折りをいただいたとき、

「これは、これからお祈りをして助けてあげる霊のお礼だ」

とわかった。
菓子折りをいただいたご家族の方には、霊が憑いているということは話していないが、憑いている霊がわたしに渡してくれるようにしているのだった。
それからは、たくさんいただく野菜も同じように霊のお礼なのだとわかるようになった。

それなので、たくさんの霊をお祈りしているときは野菜も大量にいただき、しだいに浄まってお祈りをする霊が少なくなってくると、野菜をいただくことがほとんどなくなっていった。

戊辰戦争のお祈りを始めるようになってから3年くらいが経ったとき、神様が、

「よくぞ、ここまでお浄めを行なった」

とおっしゃった。

これで戊辰戦争のお祈りは終わりなのかと思ったが、もっとも大変なお祈りの期間が終わったということで、それからも毎日々々おなじように武士や庶民の方たちのお浄めが途切れることなくつづいた。

浄まったお城

鶴ヶ城で戊辰戦争の戦いを観てから3年ほど経ったころ、両親と妹、主人とわたしの、家族5人で鶴ヶ城に行く機会があった。
天守閣の中を巡り、五層の展望台から市街を眺め、城内をひととおり見終わってお城の外に出て、駐車場に向かうために東側の廊下橋を渡った。

渡って十数メートル歩いたところで、わたしは何気なく今来たほうを振り返ると、お堀の水面の上の、橋の高さのところに、一人の年配の男性が立っていた。

その男性は、わたしに向かって90度に深々と一礼をして、

「ありがとうございました」

といった。
着ている着物と年齢から、武士ではなく、城内にいてお城を守っていた家老のひとりのようだった。

それによってわたしは、このあたり一帯で戦っていた大勢の人々が救われ、浄まったのだとわかり、

「よかった……」

と深く安堵した。
わたしは、しばし佇んでその光景を眺めてから、駐車場に向った。

駐車場に着くと、父親が、

「戊辰戦争のとき大勢の人達がここで戦ったんだ。
切られて堀に落ちた人の血で、堀が真っ赤に染まったんだ」

という。

「えっ? お父さん、どうしてそれを知ってるの !?」

「本に絵が載っていた」

父は読書が好きなので、会津若松の歴史に関する本などを読んでいる中で、戊辰戦争のことが書かれた本にも接したのだろうと思う。

「家に帰ったら、その本を見せて」

会津に住み、戊辰戦争のお浄めをしているにもかかわらず、わたしは会津の歴史や戊辰戦争に関する本をまだ1度も読んだことがなかったので、鶴ヶ城のお堀が血に染まっている場面が描かれたものがあるということを聞いて驚いた。

戊辰戦争を描いた絵に触れる機会がなかったし、まして鶴ヶ城の廊下橋一帯での戦いという限定された場面の絵があるということは考えてもみなかった。

家に帰ると、すぐにその本を見せてもらった。
廊下橋の上や、あたり一帯で戦う人々が描かれていた。
黒一色で描かれていて、切られて倒れている人々から流れている血と、お堀の水が赤色に塗られていた。

戦っている人々の人数や様子は、わたしが観ていた光景とほとんど同じだった。

確かにこの場所で、戊辰戦争のとき人々が戦い、お堀が真っ赤に染まるほどの大勢の人が亡くなった壮絶な出来事があったのだということが、これによって明らかになった。

「観た」ことが事実である場合、それを裏付けることが必ず現実で起きる。
前世の事柄と同じような事柄が現実世界で起きたり、本やテレビや人の話などでそれを裏付ける情報を見たり聞いたりすることになる。

それからさらに3年ほど経ったとき、テレビの福島県のニュース番組で、鶴ヶ城のお堀を清掃するということが報じられていた。
詳しくは記憶していないが、何十年か何百年ぶりの清掃だといっていたように思う。お堀の流水口の水を止め、溜まった汚泥を取り除くとのことだった。

霊的なものが浄まると、現実世界が変化する。
鶴ヶ城で戊辰戦争のときに戦い、亡くなった人々が救われたことで、この場所が浄化され、お堀の清掃という現実の世界でも浄化が行われることとなったと思う。

このニュースを聞き、わたしはこれで本当に鶴ヶ城とそこで亡くなった人々が浄まったのだと思えた。

鶴ヶ城はその後、2011年3月に幕末時代の赤瓦をまとった日本で唯一の天守閣になった。

甲冑を着た武士

会津の山々には、源平の合戦のときに追われた平家が逃げ隠れた、平家の落人の部落がたくさんあるという。
しかし、山は豪雪で冬のあいだは生活が大変なので、近年は山の麓に下りて生活をする人々が多くなり、山の家々は空き家が増えてきていた。

わたしがお借りした山の家も、もう何十年も人が住んでいなかった。
越してくる前に東京でこの山の家を霊視すると、家の中央あたりに、怨念がかなり強いものが真っ黒く暗いものとして観えていた。
お祈りをしたが、あまり通じている様子がなかった。

あちらに住むようになったら、イヤでもそれが何かわかってくるだろうから、そのときにまたお浄めをするといいだろうと思って、そのまま忘れてしまった。

この山の家は部屋数の多い平屋造りで、中心に当たる部屋に大きな神棚が備え付けてあった。
住むようになって1ヶ月ほどがたったときの夜、その神棚がある部屋の障子を開けて中に入ると、神棚の前の畳に甲冑を着けた武士があぐらをかいて座っていた。

怒りに近い、もの凄い気迫と怨念と、凄まじい覇気がある。
その思いのエネルギーを強烈に発していることにより、体は通常の人よりも大きく観える。

着ている甲冑の形や座っている威厳のある様子から、位が相当高く、1000人以上の武士たちを指揮、統率していた大将とか武将といわれる人であることがわかるので、生きていた当時にその地位の威厳を強く顕示していた思いも、大きく観えていたことのひとつかもしれない。
怨念や怒りを強く持っているがために、ここに留まっているようだった。

こんな思いを持った者が長い間この家にいたら、この家では家族が感情的になり、家族間での争いや揉めごとが多かっただろうし、事故や怪我も起きただろうと想像ができる。

この甲冑を着た武士が、わたしがこの家に越してくる前に観えていた「怨念の強いもの」だった。

それから2~3日後、わたしから何か尋ねた訳ではないのに、3人の女性から別々に、

「むかし、部落の家々には甲冑や刀がたくさんあった。
源平の合戦で平家の落人が会津の四方の山々にも逃げて入った。
見つからないように山の奥深くに入り、この部落もその一つである。

甲冑や刀はその時のものではないかといわれていて、先祖は武士だったのだろうと伝えられている。

それが県外から骨董品店の人が来て甲冑や刀を買い取っていき、今ではどこの家もそういうものはなくなっている」

という、同じような内容の話を聞くことになった。

甲冑を着た武士が部屋にいたこととその話が結びつき、私は話をしてくれた方たちには、観えた武士の話をすることはなかったが、山奥に逃げ隠れしなければならなかった平家の武士は、相当無念な気持ちを持ち、強い怒りと怨みに満ちていたのだろうと思い、成仏するように手厚く供養を行なった。

壁の外

喜多方市内で瞑想を教えていたときの部屋には、西側の壁に大きな黒板がかかっていた。
ある日、その壁の外の左方向である北側から、甲冑を着た武士が馬に乗ってこちらに走ってくるのが観えた。

「この壁の外には何があったのだろう」

建物を出て壁の裏側に回ってみた。

するとそこは死体置き場だった。
1メートルくらいの高さに、小山のように、無造作に積み重ねられていた。

馬に乗った武士が来た方向には、陣地があったようだ。
この辺りでも戦いが行われ、亡くなった人が大勢であったため埋葬をされることもなく、こうしてあちこちに死体が山のように積まれてあったようだ。

また、喜多方市の西側の外れの農道を北に向かって車でゆっくり走りながら、気になる場所を車から降りてお浄めを行なっていたとき、左手に1メートルちょっとの高さの台形型に綺麗に整えられた盛土が見えた。

まわりには建物は何もなく、背の高い草が生えているだけだったが、家を建てるための土台の盛土のような形をしていた。

「ここはなんだろう」

盛土がとても気になった。
車を止めてその盛土の上に登ってみた。

するとそこもまた、死体置き場だったところだった。
ここでも、丁寧に並べて置かれていたわけではなく、無造作に放り捨てられるように積み重ねられていた。

戦いのときというのは、大勢の亡くなった人々は、このようにして物のように扱われていたのだった。

鶴ヶ城のお姫さま

ある日、わたしは、関東在住のMさんという女性と、電話で会津の話をしていた。
電話の中でMさんが、

「わたしは鶴ヶ城にいたことがある」

といった。

Mさんは霊能力がある人だったので、話をしている中でそのように感じたようだった。

Mさんは、20代後半頃から、毎年夏のある時期になると時々胃がひどく痛くなっていた。
それは背中まで張ってくる痛みで、Mさんはクーラーによる冷えだと思っていた。

電話で話をした数ヶ月後の夏の同じ時期、あまりにも痛みがひどくなったので、病院で検査をすることにした。
病院に行く前の数年はただ痛むだけではなく、ジクジクと血が滲み出ているのではないかと思うような痛みだったので、もうどうにも我慢ができなくなり検査をしてもらったようだ。

検査後写真を見せてもらと、胃に4㎝位の切り傷のようなものがあり、その周りから本当に血が滲んでいた。

病院の先生が、

「胃の一部が切れて出血がひどかったようですね。相当痛かったでしょう」

といっていたが、傷はもう治りかけていたので、治療は必要なかった。

Mさんは、なぜ胃に切り傷ができたのかを観ていった。
すると、自分は戊辰戦争が起きたときに鶴ヶ城にいたお姫様で、当時は敵方に責められたとき、女性たちが自決をしたらしく、このときMさんも後ろから短刀で突かれて亡くなったということがわかった。
突かれたときの熱く痛い感じが感じられたという。

この前生の話を聞いたMさんの母親が、

「刀の傷跡じゃないの?」

といったので、

「あぁ、そうか!」

と納得できた。

毎年胃が痛くなるのは7月から9月初旬頃までで、それはまさに戊辰戦争の時期と同じだった。
刀で突かれた傷と同じような傷が胃にあったということになる。
胃が痛くなる原因が鶴ヶ城での前生にあるとわかり、そのときの出来事を解いたので、その翌年から胃の痛みはまったくなくなった。

その後Mさんは鶴ヶ城に行く機会があり、そのときに自分がこのお城にいたときの感情がよみがえってきて、ただただ”無念”の一言だったそうだ。
それは、

「どうしてこんな事が起きてしまったのだろう」

という、胸がキューッと締めつけられるような無念さだった。
しかし、このような事があって、魂とは本当に実在し、過去生の出来事や想念は生まれ変わっても繰り返される、ということがよくわかったとのことだった。

T町のお浄め

会津地方のお浄めを始めるようになってから2年ほどがたったとき、

「これからT町のお浄めをすることになりそうだ」

と思えた。
すると間もなくT町のY氏と知り合うことになった。
Y氏に初めてお会いした瞬間、「前性でご縁のある方」であることがわかった。

Y氏のお子様のことなどを観ていると、亡くなられたお祖父様が観えて、そのお祖父様がY家を昔のように繁栄させるためと、ご長男を立派な後継にしてY家を代々守り継いでいくために、ご先祖供養やお祈りをするように導いていらっしゃった。

Y家は、弥生時代が終わり、現在のような長方形の土台に茅葺屋根という家の形になった初めのころから現在の場所にあったお宅だった。
当時、Y家の周囲50~100メートル四方がY家の土地だった。

そのころ、Y家はT町(当時はT町という名前ではなかったはず)の中でもっとも栄えていた立派な家で、当時そのような立派な家は、T町に1件、北隣の現在の市に1件、南隣の市に2件ほどしかなかった。
民家というのはポツンポツンと点在している状態で、隣の家までは数百メートル離れていて、家の周りはほとんどが田んぼや畑だった。

当時のY家は周囲の人々から慕われ、信頼されていた。
お祖父様は、現在のY家が先細りしてきているので、当時のように繁栄して立派な家になってほしいと思っていて、ここからまた新しく始まるようにということだった。

その後、Y氏はご先祖供養や様々なお浄めを行なわれた。
数年たった後、家を新しく建て替えられることになり、たいへん立派な家が完成した。

このとき、古い建物を取り壊して土を掘り返すことが、今まで何百年と溜め込んできたカルマや汚れを、これでいったん綺麗にしているのだということが感じとれた。

Y宅をきっかけに、それからはT町のお浄めが続いた。
お浄めが終わってくると、Y宅と同じように新しく建て替えたり修繕を行なう家が数件あった。

霊的なものが浄まる、あるいは整ってくると、現実の世界が変化してくる。
古い建物が壊されて新しい建物が建ったり、浄まった地域一帯が整備されたり、複数件の住宅が同じような時期に建て替えをして新しくなるということがある。