同じ事柄に関する、同じ感情

同じ事柄に関する、同じ感情

瞑想を始めたころは、チャクラに集中する行法を行なっていました。
1つのチャクラに数時間集中します。
始めるとまもなく、集中しているチャクラの色が鮮やかに見えました。

アジナーチャクラが開いたときは、額に洞窟のようにポッカリと開いたものが観えて、それがわたしの呼吸に合わせて広がったり縮んだりして、まるでチャクラが呼吸をして動いているかのようになりました。

1つのチャクラに長い時間集中するので、1日に2つか3つを決めて集中していましたが、あるとき、

「こうして長い時間をかけて集中していても、ただ時間が経っていくだけだ」

と時間の無駄であるように思えてきました。

そう思うようになってまもなく、瞑想をしているときに毎回おなじ思いが出てきていることに気がつきました。
集中をしているのに、いつのまにか、同じ事柄の同じ思いが湧いてでてきて、それに気がついて集中にもどしても、しばらくするとまた同じ思いに引きずられています。

そのとき、

「瞑想をしているときは色々な思いや雑念が出てくるけれど、
この、『同じ事柄に関する、同じ感情』があるうちは『自分がなくならない』」

ということに気がつきました。

いつも同じ感情が出てくるということは、過去のそのときの出来事に執われている気持ちがあるということです。
その執われているものが、「自分」というものを作っているものだと思えたのでした。

それからはチャクラに集中することを終了して、「自分」を作っているものをなくしていくために、自分の心を観ることに切りかえました。

この、自分の心を観て解いていくことは、書物からの知識があったわけではなく、また、人にそうした行法を教えてもらったことがあるわけでもありませんでした。瞑想を行なっている中で気がついたものでした。

その数年後には、「気づき」ということがいわれるようになり、感情を解放することも行なわれるようになりましたが、当時はまだ、そのようなことは聞いたことがなく、接する機会もありませんでした。

それからは、それまでの瞑想のやり方をすべて捨てて、この「自分の心を観る」ことだけを行なうようにしました。

「同じ事柄」、「同じ感情」とは

では、「同じ事柄」とはどういうことか。
日常生活で、わたしたちはあれこれあれこれと、考えや感情が変化します。
起きている出来事や、今するべきことに対する反応であれば、

「書類のミスをしてしまい、気持ちが落ち込んだ」
「あの店員さんは、乱暴ないい方だったから気分が悪い」
「掃除、洗濯をしたあと家族旅行の予約をしなければならないけれど、時間がないから急いでやらなければ」
「今日は野菜スープを作るから、ニンジンとジャガイモを買おう」

というように、起きていることや、対処しなければならないことに対する感情や考えがつねに変化しています。
それらは、そのときだけのものが多く、過ぎ去ってしまうと忘れてしまうか単に記憶しているだけというものになり、次から次と変化していくものです。

それに対して、
例えば、男性であれば、父親が厳しい人で、「何をするときも」父親の存在が頭から離れないし、父親から言われた厳しい言葉が心のキズになっていて、怒りや憎しみが湧いてくる。
女性であれば、お姑さんとの仲がうまくいかず、考え方が合わないため日頃から言い合いをすることが多く、「つねに」お姑さんのことが頭にある。

というような、次から次と変化して移り変わっていく考えや感情とは別に、「いつも」、「つねに」考えや思いにでてくる対象、上記では「父親」や「お姑さん」を「同じ事柄」といっています。

「同じ感情」というのは、上記の父親の存在や、父親にいわれた厳しい言葉に対する「怒り、憎しみ、怖れ」などで、お姑さんとの確執による「怒り、憎しみ」などです。

これらの感情は、「父親」のことが浮かぶと同時に、「怒り、憎しみ、怖れ」という感情もともなっているはずで、それは、いつも同じ感情であるはずです。
「お姑さん」の場合も同じです。
「同じ事柄の対象」と「それにともなう感情」は一体です。

「同じ事柄に関する、同じ感情」は、人に関することだけではなく、車の事故などという「経験した出来事」の場合でも、そのときの恐怖心がいつまでも心に残っていて、つねに思い出されるというようなときには、「車の事故」が「同じ事柄」であり、「恐怖心」が「同じ感情」になります。

「責任のある仕事をいくつもまかされて、毎日がとても辛く苦しい」

という思いがつねに自分の心を占めている場合は、「たくさんの仕事を抱えている状態」が「同じ事柄」であり、「辛く苦しい」思いが、「同じ感情」になります。

こうした、つねに出てくる同じ感情というのは、それが自分にあることを自覚しているにしても、していないにしても、心の深くで動いていて、気がつかないうちにいつも考えていたり、あるいは何かがきっかけになって浮かび上がってでてきたりしています。
ですから、まったく別のことをしていたり考えていたりしたのに、いつの間にか父親やお姑さんのことを考えてしまっていることもあります。

そうした、同じ事柄に対して同じ感情がいつも出てくるということは、今生での体験だけによるものではありません。
前生で、その事柄が起きたときに、その感情を持ち、そして、その感情に強く執われたことが原因となっています。
そのときに執われて、解けていないがために、今生でそのとき執われたことと「同じ事柄」が起き、「同じ感情」がでてくるのです。

つまり、「同じ事柄に関する、同じ感情」というのは、「執着している事柄」になります。

そして、「執着しているものを持っている自分がある」ということが、自分の考え方や性格、人格、物事の選択のしかた、好き嫌い、自分の人生など、「自分」そのものを作っているものになります。

岩が砕ける

わたしが「同じ事柄に関する、同じ感情」に気がついて、初めてそれを観つづけたとき、その執われていたものが「大きく非常に硬い岩」として観えました。

岩というのは象徴であって、執着しているものというのは、岩のように硬く強くガッチリとあるというものでした。

それは胃のあたりに観えました。
わたしはその「岩」を観つづけました。感じつづけました。

1週間がたったとき、その硬い岩に亀裂が入りました。
縦に、上から下までパックリと亀裂が入っていました。

「これで少しヒビが入った」

固く執着しているものにヒビが入って、少し緩んできたようでした。

亀裂が入ってからさらに1週間観つづけると、硬い岩は細かくバラバラに砕け散り、そして消滅してしまいました。

「これで消えてなくなったかもしれない」

翌日、同じように観てみると、今までわたしの胃のあたりにあった、その執着していた思いは、

「そんなもの、あったのだろうか」

と思えるほど、わたしの中から消えてなくなっていました。
これで、

「わたしはこの感情を解くことができた」

と実感することができました。

この「岩」という象徴で観えることは数ヶ月つづき、その後は執われているものそのものとして観ていくことになりました。

「岩」として観えることは、執着しているものというのは、それほど強くガッチリとあるものだということの例をあげたもので、必ず岩として観えるというものではなく、また、このように見えなければいけないというものではありません。
観え方や感じ方は人によってさまざまで、感情そのものではなく象徴として観えることもあるという例をあげました。

岩として観えた数ヶ月のあとは、おなかの深くからつぎつぎと自分の執着しているもの、固定観念、思い込みなどが現れ、それそのものを観ていきました。
ひとつのものを観て解くと、すぐに次のものがその奥から浮かび上がって現れてくるので、休む間もなく、つぎからつぎとそれらを観て解いていきました。

それは、水の底から水泡がひとつ浮かび上がってきて、水面に水の波紋が広がるようなイメージでした。

そうして浮かび上がってくる期間がしばらく続き、それが綺麗になると、今度は自分から執われているものを探して観ていくようにしました。

執われがそれほど強くないものやちょっとした思い込みなどは、1度観てすぐに解けることもありますが、たいていの場合は、1つの事柄を観続けて解けるまでに、おおよそ2週間くらいはかかります。

感情的なものや比較的執われが少ないものは、胸や胃のところで感じ、前生で執着したもので深く強く執われているもの、あるいは、今生で解くべきもっとも重要なものなどは、おなかの深くでそれを観るようになります。
これは、感情のチャクラ、無意識のチャクラに対応しているのだと思います。

わたしは、

「人の心とはどういうものなのか、どういうメカニズムになっているのか」
「この心の、その先はどのようになっているのか」
「これを解いた先は、どんな意識なのか、何が現れるのか」

と、人間の心理の状態にとても興味があったため、ひとつ解いてもさらにその先は、さらに先は、と細部まで追求していくことが尽きることがありませんでした。

否定したり、置き換えたり、フタをして見ないようにすることよりも、人の心がどのようになっているのかという「真実」が知りたいという思いのほうが強かったので、途中で満足したり、これですべてだろうと自分で判断したりせずに、さらに先に進んで観ていくことができました。

執着していたものをひとつ解いたからといって、それで「自分」をつくっていたすべてがなくなったわけではありません。
人の心は、木の根がたくさん枝分かれして伸びているのと同じように、ひとつの執着していたものを観ても、そこにはさらにいくつかの執着や原因があります。

それはとても微妙なもので、見過ごしてしまいかねないほどのものであることもあり、こんなところに原因があったのかとわかるものもあります。

そんな、ほんとうに微妙なものであっても、「自分」というものをつくっていたものであり、自分の人格、性格、人生に大きく影響していたものなのです。