自我の消滅

理解だけでは解けない

自分の心を観て解いていく瞑想のやり方を、どのようにしたら理解してもらうことができるのか、その説明のしかたが長い間わたしにはわかりませんでした。

誰にでも理解ができるように、わかりやすく説明するにはどうしたらいいのか。
どのように説明をしたら、これを実践することができるのか。

どうやったら解くことができるのかという知識や理屈、理論が理解できたとしても、理解するだけでは解けたことにはならず、じっさいに執われているものを直視してそのまま感じるということを説明するのは、とても難しいことでした。

長い間、その伝え方を模索して探していましたが、的確な説明のしかたが見つけられずにいました。

瞑想を始めてから30年近くがたち、会津のお浄め(「山桜いろの春」参照 )がだいたい終わってきたとき、ある日瞑想をしていると、突然、「どのように説明をしたらいいのか」がわかりました。
1ヵ月くらいのあいだにパラパラパラと、連続して流れるようにそれがわかりました。

長いあいだ探しつづけてもわからずにいたものが、たった1ヵ月の間に一気にわかることができました。
それは、自分から探さなくても、やるべきことをやっていると、時期が来たときに向こうからやってくるものでした。

「自分」をつくっているもの

わたしたちは、自分にたくさんの執着や固定観念、思い込みなどを付けています。
それはちょうど、タマネギやラッキョウのようなもので、タマネギやラッキョウを1枚ずつ剥がしていくと、最後には何もなくなるのと同じように、わたしたちが付けている執着や固定観念、思い込みなどをひとつひとつ取り除いていくと、最後には何もなくなります。
何もなくなったものが神様の意識であり、宇宙意識です。

もともと何もないところに、いくつもの執着や固定観念、思い込みなどを付けているのが、「わたし」です。
執着や固定観念、思い込みなどを認識して解いて消滅させることができると、自我のない意識に近づいていくことができます。

執着や固定観念、思い込みという、「自分」があることは、それが苦しみの原因になっているものでもあるので、それを解くことで苦しみから解放されます。

執着や固定観念、思い込みなどは、自分の性格や人格、物事の選択の仕方、人生を決めているものであり、そのような「自分」をつくっているものです。
執着や固定観念、思い込みなどがなくなると、人との関係性や自分の周りの出来事との関係性が変わります。そのため、自分の今までのあり方が変わってきます。

自分は心が弱いと思っている場合、強くなるために体を鍛えたり、強く見せようと虚勢を張ることではなく、弱い心になっている理由があるので、それを解くことによっておのずと強くなることができます。
体を鍛えて強くなったように思っても、「弱くなっている原因の心」そのものは消滅するものではなく、弱い自分のままなので、そこに苦しみが生まれることになります。

何度事業を始めても、いつも成功できない場合、事業を成功させるための知識をどんなにたくさん身につけても状況を打開することはできません。
成功できない、あるいは自分で成功させたくないと思っている心の執われがあるので、それを解かなければいつまでも成功できないことを繰り返します。

自分の思うようにいかないことや苦しいことがあると、自分の外に向かって解決方法を求めますが、外ではなく自分の内にすべての答えがあります。

執着

「水が怖い」という人がいます。
顔を洗うとき、洗面器に入っている水を顔にかけるのが怖い。
海や川が怖くて、水辺に近づくことができない。

そのような人は、前生で水に溺れたなど、水に関することで怖い経験をした過去があることがほとんどです。

たとえば、海で家族とボートに乗っていたらボートがひっくり返って溺れて、恐怖心と苦しい思いをもって死亡した、洪水で水に飲み込まれて亡くなった、など。

そのような出来事が自分の身に起きたとき、溺れる恐怖心や苦しみなどの感情を強く持って、それが執着になることがあります。

執着したものは、その生が終わると同時に消えてなくなるものではなく、そのまま残ります。
その執着したものを解くために生まれ変わり、その出来事が起きたときと同じようなことがまた現実で起きて、執着したものがある限り、それを繰り返します。

「水が怖い」という思いも、溺れたときに持った恐怖心や苦しみの強い執着心を解かないかぎり、水に対する怖れがなくなりません。

「こんな少量の水が襲ってくることはないから怖いことはない」
「水は飲んだり料理したりする生活を支えてくれているものなのだから、怖いなどと思ってはいけない」

と、怖いものではないことを自分にいい聞かせたり思い込もうとしたり、周りから説得されたとしても、その恐怖心は消えてなくなるものではなく、「怖い」という執着心を持っていながら、「怖いと思ってはいけない」と思おうとすると、そこに苦しみが生まれます。

自分が持っている執着を否定して、別の思いを持とうとすること、それは知識、常識という理性や、見栄、虚勢、おごりが働いてしまうためですが、それで塗り変えてしまうことは、ますます執着しているものを自覚しにくくしてしまい、奥へ奥へと追いやって観えにくくしてしまうことになります。

奥へ追いやってフタをしてしまっても、それは「在り」、自分に大きく影響しています。

否定したり塗り変えることではなく、「怖い」思いを直視することで、それが解けてなくなり、自分の中から「水が怖い」という思いが消滅します。
解かなければ、水と関わるたびに「怖い」と思うだけで、いつまでたっても水と自分との関係性は変わりません。
そして、解けることで、水が怖いと思う原因になった出来事が、もう起きなくなります。

自分にとって強い執着や強い苦しみになっているもの、あるいは事故などの大きな出来事というのは、今生で初めて偶然に起きたことではなく、必ず前生で同じような事柄が自分に起きており、そのときに苦しみや恐れ、怒り、悲しみ、憎しみなどの感情に執われたことが原因になって起きています。
執われたがために、同じような事柄が今生で起きます。

ですから、今起きていることだけを解決しようとしても、それは表面的なもので、根本的な解決にはなりません。

自我の解放

判断や分析をしない

執着や固定観念、思い込みなど、自分にたくさん付けているものを解くことができると、それらは自分からなくなります。
これを解くには、この執着や固定観念、思い込みなどを直視します。
瞑想で、それそのものを感じるようにします。

「水が怖い」例で考えてみると、水に対して「怖い」と思う、その「怖い」という気持ちを瞑想で感じます。

そこに自分の考えや判断を入れないで、決めつけたり解決しようとしたりしないで、ただそのものを感じる、観るようにします。
自分の知識や経験や常識で判断をしたり分析をするという、「思考」をすべてはぶきます。思考から答えを出すものではありません。

「観る」ことは、考えることではなく、ただそれそのものを観る、感じることです。「観て」いると、自分では考えもしなかった、気がつきもしなかった本当のことがわかってきます。
知識や経験や思考による答えではない、本当のことがわかってきます。

「観る」ことを、自分の言動や思考を客観的に観察し、自覚することだと考えている場合があります。いま自分はこう考えている、こう感じた、こう反応したと自覚し、そして挙動も自覚するというように。

しかし、ここでいう「観る」ことは、言動や思考や感じることを観察したり、自覚するだけということとは違います。
心そのものを「観る」、「感じる」ことなのですが、それがどういうことであるかを一度理解できると、その後はどんなことであっても、同じように観て、解いていくことができます。

執われていたものが消滅する

執着や固定観念、思い込みそのものを観つづけ、感じつづけると、

「こうだと思っていたけれど、本当はこういう気持ちだった」
「なぜこの感情を持ち、そして固執しているのか」
「そのとき何があったのか、自分はどうすれば良かったのか」

といったことがわかってきます。
それは、頭で考えていたこととはまったく違うことであることも多く、本当のことが明らかにわかってきます。

それはまた、神様の道に沿って歩むには、これをどのように解いて、どのような心の持ち方をするといいのか、ということがわかってくるということでもあります。
神様の道に沿った心の持ち方でなかったから、執われて凝り固まって苦しみになっている、という場合もあります。
これは、人間の社会通念でいう、正しいとか正しくないということとは、また違ったものです。

そうして、本当のことがわかると、執われていたものは解けて消滅します。

「こんな執着は持っていなくていい」
「こんなふうに思う必要はなかった、固執する必要はなかった」
「当時、自分がまだ精神的に未熟だったため、こういう思いにしかなれなかった」

などと、理解や納得ができる場合もあります。

執着や固定観念、思い込みが消滅したあと、それを再度観てみると、

「自分にそんな感情の執われなど、あっただろうか」

と思うほど、自分の中から執われていた強い気持ちが消えてなくなっています。
「その感情に強く執われていた自分」がなくなっています。

「水が怖い」という例でみると、怖かった思いが解けて自分の中からなくなると、その後は、水に接しても「怖い」という気持ちが起きなくなり、そしてまた、「ボートで転覆して死亡する」とか、「洪水災害にあって亡くなる」という事柄も、もう起きなくなります。

たとえ転覆しそうになっても、バランスを取り戻して大事にいたらなかったり、洪水に遭遇しても逃げることができたりして、大きな恐怖心や苦しみを受けることはなくなります。

執われていたものが消滅したということは、タマネギの1枚がなくなったことであり、苦しみの原因になっていたものが1つなくなり、「自我」が1つなくなったということです。

執着や固定観念、思い込みなどがあるということは、それらで自分を拘束しているようなものでもあり、そのような状態は本当の自由ではありません。
こうして自分自身を拘束していることに気がついていないことも、また多いのです。

認めることに対する怖れ

人は自分に都合の悪い思いや認めたくない思いは、心の深くに押し込めてしまったり、フタをして見ないようにしてしまうことがあります。
そんなものは見たくないし、見るのが怖いし、自分にそんな思いがあることを認めたくないので隠そうとします。
自分が本当は持っている思いなのに、道徳心から、そういう思いを持ってはいけないと押さえ込んでいることもあります。
たとえば、特定の人を憎んでいる気持ちがあるけれど、自分に「憎しみ」などという汚れた気持ちがあることを認めたくない、観たくない、だから観ないようにして、深くに押し込めてしまっているということがあります。

このように隠そうとしたり、押さえ込んだりしているエネルギーというのは、とても強いものなので、それだけでも力が入っていたり、余計なエネルギーを使っていたりします。
この無駄に使っているエネルギーを解放してあげると、そのエネルギーは前向きなものに使うことができます。

その隠していたいもの、観ないようにしていたものを観て、本当のことがわかるのが怖いと感じることがあります。本当の気持ちや原因がわかったり、「自分」がなくなることに怖れを感じることがあります。

そうすると、観るべき対象から心をそらしたり、自分で理屈をつけて解釈をして答えをだしたり、ほんの表面だけを観て満足してしまうということが起きます。

自分が精神力で、そんなものは「ない」と思えばなくなる、というような単純なものではなく、否定したとしても、心の奥深くに「在り」、解かない限りそれはなくなりません。

直視していくのは辛いと感じることがあるかもしれませんし、執着しているものがとてつもなく大きなものに感じられて、直視するのが怖いと思うこともあるかもしれません。
そのような場合でも、執着しているものを観ていき、その理由がわかると、こんな些細なことに今までずっと執着して自我と苦しみを持ちつづけていたのか、とわかります。

別の思いにすり替える苦しみ

辛い、悲しい思いに執われているのに、そんな思いを持っていてはいけない、「楽しい、嬉しい」と思わなければと無理やり気持ちを作ろうとすることは、「辛い、悲しい」思いがあるのにその上に別の思いを重ねようとすることであり、そこに大きな苦しみが生まれます。

「楽しい、嬉しい」と思うことが、「辛い、悲しい」ことから解放される手段ではなく、「辛い、悲しい」ことそのものを解くことで、「辛い」、「悲しい」思いがなくなります。
すると、無理に「楽しい、嬉しい」と思おうとしなくても、自然に楽しい、嬉しい気持ちになります。

「辛い、悲しい」思いに執われているうちは、いくら楽しく嬉しくなることを追い求めても、心が安らぐことはなく、自分はこれで満足していると納得させていても、そう思い込もうとしているだけで、心の中では「辛い、悲しい」という思いと「楽しく、嬉しくしなければ」という思いが葛藤をしているので、それは苦しみになります。

道徳心や理性、社会通念、常識といわれているものなどから、こういう考えを持つことは良くないこと、こう思ってはいけない、これはこうでなければいけないと、自分の本当の気持ちを抑圧することをずっと繰り返していると、心がグチャグチャになってしまうことがあります。

そうなると、自分の本当の気持ちがわからなくなったり、上部だけで相手に合わせたり、自分を擁護するために自分を正当化することばかりいったり、つねに本質から心を逸らして本質を見ようとしなかったりするようになります。
それは自分にとって、とても苦しいものです。

そういうときは、自分が本当に思っていること、それが道徳的に良くない思いであっても、その思いを直視して観ることで、その思い自体が解けて消滅してしまうので、抑え込んでいなければいけない苦しみから解放されることができます。

すべては自分がつくりだしている

「自分」を作っていた、こうした執着などを観ていくと、自分自身のことや自分に起きる出来事、自分の周りに起きる事柄は、どんな些細なことでも、

「すべて自分がつくっている」

ということがわかってきます。

親のせいで、またはあの人のせいで、自分のやりたかったことができなかった。
あの人にこういわれたから、そのせいで自分はとてもキズついて自信を失った。

という「人のせい」にできることは何ひとつないということがわかってきます。
どんな些細なことも、すべては「自分で選択」していることなのです。

選択とは、執着しているものがあるから、やりたかったことができない方向を「自分が」選択し、「自分が」自信がないという思いを持っていたので、人からいわれてキズつくという現実を作ります。
執着しているものがあるから、それを選択することになります。

前生で、人をキズつけるようなことをいってしまったと、自分で思い込んでいて、そんな自分は「人をキズつけるようなことをしたのだから、幸せになる資格がない」と、幸せではない人生を選択していたり、仕事で失敗したのは、誰のせいでもなく、自分が成功を恐れているものを持っていたから、成功するほうを選択できなかった、というように。
それは、ほんの些細なことであっても、すべては自分で作り出しています。

自分と自分の周りに起きていることには、すべて理由があります。
その理由を識り、解くことができると、自分と自分の周りが変化します。