しあわせ、とは

宇宙を想像してみてください。

宇宙を想像したときに、もし、美しい、引き込まれる、癒される、心が落ち着く、しあわせに感じると思うとすると、それはあなたの感覚、あなたが感じていることです。

宇宙は、美しく見せようとも、引き込ませようとも、癒そうとも、心を落ち着かせてあげようとも、しあわせを感じさせてあげようとも考えていません。
宇宙自体は、「ただ在る」だけです。

自我のない意識、もともとのわたしたちの意識には、しあわせということも、しあわせでないということもないのに、そこに自分が「しあわせ」という幻想をいだいています。

自分が、しあわせだと感じる経験をしたとき、そのしあわせな感じをずっと持ちづけたいと思うと、そこにしあわせに対する執着心ができます。
そして、そのしあわせをまた得たいと思い、追い求めます。
生まれ変わっても、自分の意識の中にあるしあわせの感覚を追い求め、探しつづけます。

あるいは、「こういうものが、しあわせ」と、社会や人から教えられていたり、思い込まされていたり、自分の価値観で「こういうものが、しあわせ」と思い込んでいるものを追い求めることもあります。

または、他人と比較して、「自分はしあわせではない」という思いを持ち、もっとしあわせになりたいと追い求めたりします。

そうした、自分が思い描いているしあわせを掴めないと、しあわせになっていない自分、しあわせを掴めていない自分に焦りを感じたり、罪悪感をもったり、落胆したり、こんな自分ではダメだと自分を否定したりします。

また、自分が経験したことがない事柄に関して、「きっと、しあわせなのだろう」と想像して、想像で作り上げたものと自分とを比較して、

「自分はしあわせではない」

と思い込んで、嘆いたり落胆したり苦しんだりすることもあります。
そして、その思いを繰り返して、自分はしあわせではないという思いに凝り固まり、「しあわせでない自分」というものを作ってしまいます。
そのようになると、しあわせでないと思っている心のエネルギーと同じエネルギーを呼び寄せることになり、しあわせでない自分のままになってしまいます。
これも幻想です。

あなたが想像した「しあわせ」、あなたが自分で作り出している「しあわせ」を追い求めているにすぎません。
自分が想像しているものであり、思い込んでいるものであることに気がつくことができると、意識は大きく変わります。

しあわせを求めて、しあわせが手に入れられないとき、そこに苦しみが生まれます。
「しあわせになりたい」という思いがあるけれど、「しあわせではない自分」という思いも同時にあり、それが苦しみになります。
しあわせを求めているはずなのに、いつまでも苦しむことになります。

また、ひとつしあわせが手に入っても、さらに別のしあわせを求め、いつまでも求めつづけて、手に入れられないうちは苦しみます。

手に入れたとしても、自分の幻想によるしあわせだから、現実と幻想の違いに満足ができなかったり、自分が期待していたものと違うように思えたりして、さらに追い求めることになります。

この現象の世界は、相反する世界ですから、しあわせに執着して追い求めていると、その反対の現象も起きます。
しあわせを追い求めて、それを掴んで、とてもしあわせに満ちた生だったけれど、次の生では相反して苦労の多い人生になる、ということも起きます。
また、しあわせを掴んだと思ったら、それは苦しみの多い現実と隣り合わせだったということもあり得ます。

両親がいて、自分の夫や妻や子供がいて、子供は元気に成長していて、周りから見るとしあわせな状況であると思えるにもかかわらず、自分がしあわせであるということを実感していない、または、満足していないという人も多いものです。

自我がなくなっていくと、相反する世界を超えていくことができます。
自我がなくなった意識は、しあわせでも、しあわせでなくもないものなので、そこには、しあわせを得られていないという不安感や、しあわせを得なければという焦り、しあわせを得られていない自分はダメだという落胆や罪悪感がありません。
それは非常に心が安定していて、これが本当のしあわせな状態といえるものだと思います。

しあわせであること、しあわせでないことを超えた、自我のない、「ただ在る」だけの意識になることが、もっともしあわせな状態です。

しあわせとは、自分で想像したしあわせを求めることではなく、しあわせを追い求めている自我を捨てていくことです。

ただ、現実的にしあわせでない状況が起きているという場合もあります。
たとえば、夫婦や家族間で問題が起きている、人間関係でトラブルが生じている、精神的、肉体的に不調になっているというような場合です。
この場合は、起きている原因を観て、それを解くことで、しあわせではない状況から解放されることができます。

また、前生で、他人をキズつけるようなことをいってしまった、人を欺いてしまった、裏切ってしまったなどの罪悪感によって、「そんな自分は、しあわせになってはいけない」、「しあわせになる資格がない」と思い込んでいる場合も多いものです。

そして、自分の親や兄弟姉妹、親友を差し置いて自分がしあわせになってはいけないと思っていたり、世の中には大変な思いをしている人がたくさんいるから、自分だけがしあわせになってはいけない、と思っていることもあります。
小さいときからの周りの教えや道徳心から、そう考えることが当たり前と思っているのです。
このように思うことは美徳と考えられているところもありますが、自分の心をよく観ていくと、これも思い込みであり自我であることがわかります。

「しあわせになってはいけない」と、自分で思い込んでいたものを解くことができると、しあわせでも、しあわせでなくもない意識というものがどういうものかがわかってきます。