「自分」を作っているものを解く  Ⅳ 解放のしかた

目 次

Ⅳ 解放のしかた

前回までお話してきたことは、言葉で理解をすることができる内容だと思いますが、これからお話しする「観て解く」ということは、言葉で説明しただけでは理解をしていただくのが難しいことだと思います。

そのため、最初に、それがわかっている人から直接指導や誘導をしてもらう必要があります。解くことがどういうことであるのかがわかると、あとはどんなことでも同じように観て解いていくことができます。
間違えて理解をすると、自分では解いたつもりでいても、実際は何も解けていないということになります。

「観て解く」ことは、
・自分の思考や行動を「いま自分はこう思っている、こう感じている、こう考えている」「いま自分はこういう動作をしている」と単に客観視することとはまったく違います。
・自分が間違っていたことに気がつく場合もありますが、ただ単に「自分が悪い、自分のせいだ」と自分を責めたり反省したりすることではありません。
・頭で考えたり頭で理解することではありません。文章を読んで理解ができても、それで解けたことにはなりません。

1. 感情をそのまま感じます

前回例としてあげた、つぎの事柄でお話していきます。

「Mさんは小学生のときに信用していた親友に裏切られたうえ酷いことをいわれて心がとても傷ついた。大人になった今でも裏切られたときの深い悲しみや腹立たしい思いが自分の中にあることが自覚できる。自分が人間不信なのはそのときのことがあってからだと思う。
悲しみの感情を持っていることがとても辛く苦しいため解放したい。人間不信も解消したい」

この例を「同じ事柄に関する、同じ感情」に当てはめて考えてみると、「小学生のときの信用していた親友に裏切られた」ことが「同じ事柄」で、「悲しみ、腹立たしい思い、人間不信」が「同じ感情」になります。

Mさんは、瞑想をするたびに「小学生のときの信用していた親友に裏切られた」「悲しみ、腹立たしい思い」が雑念として出てくるというふうに仮定します。
集中をしていたのに、いつの間にか「悲しい思い、腹立たしい思い」だけになっていて、同じ思いがグルグルと回っています。瞑想のたびにいつも同じ思いが湧いてきますが、そこから何の答えも解決策も出てきません。ただ同じ感情が巡っているだけで、悲しみや怒りが薄れることはありません。

このようなとき、「同じ感情」を瞑想で観ていきます。ここでは「悲しみ」の感情を取り上げます。
漠然と、「親友に裏切られた…」と観るのではなく、ひとつに絞った「感情そのもの」を観ます。

瞑想を行ない目を閉じます。
初めのうちは感情は、胸や胃のあたりで感じますから、胸のあたりで「悲しい」という感情を感じます。

「悲しい、悲しい」

と、悲しい気持ちを感じつづけます。ただその感情を「観ている」といういい方もできます。

眉間や胸などのチャクラに集中をするとき、そこにポンと意識を置きます。集中をするといっても力を入れるわけではありません。それと似ています。胸のところで「悲しい」という思いをただ感じつづけます。

2. 自分の考えや判断を入れない

「悲しい」感情を感じているときに、自分の思考を入れないようにします。
そこから答えを出そうとしたり、あの時はああだったからこうだったからという考えや、判断、分析をしないようにします。

また、それを「捨てよう」としたり、「追い払おう」としたりすることでもありません。ただ「悲しい」感情そのものを感じます。

そのときに、「なぜ (悲しいの) ?」と思いながら観ると、わかっていくことができます。

3. 知識や経験、想像とは違う

感じつづけていると、そこからわかってくることがあります。
それは、頭で「こうだろう」「こういう理由だろう」「こういうことが原因だろう」と考えたり想像したりすることとはまったく違うことである場合が多いです。

頭で考えることというのは、知識や経験、そして想像で考え、その範囲からしか答えが出ません。知識や経験から結論づけ、想像で作り上げます。「観る」ことは知識、経験、想像から答えを出すものとは違うものです。
それそのものを「観る」と、知識、経験、想像を超えたところで本当のことが「わかります」。

Mさんの例でも、

「親友のことを買い被りすぎていたのかもしれない。わたしが気に障ることをいったのかもしれない。小学生同士の他愛もないことなのだから、そんなに深刻に考えることはない。人間不信でいては人とのコミュニケーションや社会生活に支障をきたすから、努力して直していかなければいけない」

と考えるのが知識や経験、想像から考えることで、社会一般の常識や自分の経験に当てはめて考え、また、自分の辛いことや苦しみを「努力」して解決しようとします。しかし、そうして自分の気持ちを納得させようとしても、深い悲しみや腹立たしい思いは消えてなくなりませんし、努力して人間不信を直そうとしても心が苦しくなるばかりです。

苦しみや悩み、トラブルがある場合、必ずその人個人の理由や原因があります。理由や原因が明確に分からなければ、苦しみを根本的に解くことができません。
知識や経験、想像で考えることは、その理由や原因となるものが分かるということとは違います。

「観る」ことによってその理由や原因を知ることができます。本当の理由や原因がわかったとき、執着していたものが解けます。知識や経験、想像では考えもつかなかった、本当のことがわかります。

4. 執われが消滅する

理由や原因がわかったとき、執着していたり思い込んでいたり固定観念を持っていたりしたものが解けます。解けるとそれは自分の中から消えてなくなります。

消えてなくなるということは、自分の中に「小学生のときの親友に裏切られた悲しみ」がなくなったということです。
それは、「悲しみを持っている自分」ではなくなったということであり、悲しみに執われていた苦しみもなくなります。そのため、心が楽になり意識も変化します。
またMさんという個我を作っていたもののひとつである、「悲しみ」への執着がなくなったということでもあります。

これは、思い込みや固定観念、性格に関しても同じです。思い込みや思考のクセがあることで苦しんでいた状況や、物事がうまくいかなかった状況が、解けたことによる意識の変化で変わっていきます。

嫌だと思っていることとか苦手だと思っているようなこと、例えば人と接することがすごく苦手で人見知りが強いという場合なども、「人と接することが苦手」というそれそのものを観ると、その思いを解いていくことができます。

それらはすべて、執着や思い込み、固定観念として自分が持っているもので、「変えられない自分の性格」ではありません。「自分はこんな性格だから、一生この性格と付き合っていかないといけない」と落ち込んだり、「この性格を努力して克服しよう」としたりすることではなく、解くことができるものです。

執着している感情があって苦しいとき、それを払い除けて記憶から消したいと思っても消すことはできません。「こんなものはない」と否定してもなくなるものではありません。忘れようとしても忘れることはできません。他のことに気持ちを向けて紛らわせようとしても気がつくとまた思い出しています。頭でいくら整理、納得したつもりでも、なくなっていません。

「観る」ことによってそうした執着を解くことができ、苦しみから解放されることができます。

5. さらに深く

観ているものが、自分にとって「辛い感情」や「嫌な思い」であっても判断をしないで観ていき、「良いこと」であるとか「悪いこと」であるとか選別をしないで、ただそのものを観つづけます。

いま何か苦しいことが起きて出ている感情は、「いま解くべきもの」として表面に現れてきている感情です。その表面のものを解くと、その奥にあるものが浮き上がってくるようにして現れてきます。その現れてきたものをまた解いていく、というようにしていくと、しだいに深いものを解いていくことができます。いきなり深いものを解くということはできません。

ひとつのことを解いたと思っても、一年ほど経つと同じ事柄に関することがまた現れてくることがあります。それは以前に解いたと思っていたものが解けていなかったということではなく、さらに深いものが解けるために現れてきているためです。

前生で11月に大きな事故に遭って、そのときに恐れや苦痛に執われたとします。
今生が、それが解ける生であるとすると、事故に遭った前生と同じ11月頃に、そのときの恐れや苦しみが出てきます。それを解くと、また一年ほど経った同じ11月頃にさらに深いものが現れてくる場合があります。
何度も出てくるということは、それだけ自分にとって解くべき重要なものであり、根が深いものであるということです。

また、このようなときは、現実世界でも前生と同じようなことが起きているはずです。その場合、11月頃に事故に遭うという同じようなことが起きて、それがきっかけで前生の事故のときに執われた感情が出てきます。

観ていくことは、初めのうちは表面的な感情を観るため、それは胸や胃のあたりで観るようになりますが、表面的なものを解いて、より深いものを観るようになると、お腹で観るようになります。それは無意識のチャクラと関係しているのだと思いますが、深い意識は、お腹の深いところで識ることができます。

人の意識は、木の根がいくつにも枝分かれしているようなものです。ひとつの事柄に関することが、いくつか伸びているうちの一本の根だとすると、そこから何本もの細い根が枝分かれしているように、ひとつの事柄に関することでもそこに色々な執われがあるものです。

そして、枝分かれした根の先に行くほど細くなっているのと同じように、先に深くに行くほど、針の先のようなほんの小さな「自分」が観えてくることがあります。それはとても微妙なもので、注意深く観ていかないと気がつくことができないようなものです。
いくつか解いて、これですべて解けたと思わないで、その先をさらに観つづけてください。

自分の執着や思い込み、固定観念が解けてなくなるということは、「自分」がなくなっていくということです。ガチッと作っていた「自分」というものが壊れていくことです。
そのため、深くなるにつれて、今までの自分がなくなることに対しての、あるいは自分が壊れることに対しての恐怖心を感じることがあるかもしれません。

執着や思い込み、固定観念を持っていると苦しいにもかかわらず、今までの自分のままでいる方が居心地がいいように思えて、そこから出たくなくて、あるいは出られなくて言い訳や理由をつけてその先に進むことをやめてしまうこともあります。

そのときは、動揺することなく冷静に、「怖い」と感じているそのものを観るようにすると、恐怖心を超えていくことができます。
こんな思い違いをして怖がっていたのか、こんな些細なことを怖がっていたのかとわかるかもしれません。

このようにして自分の執着や思い込み、固定観念をいくつも解いていくと、どんな些細なことも、自分と自分の周りに起きていることは、誰のせいでもなく、すべて自分が選択していることなのだということがわかってきます。

「Ⅴ 観るときの注意点」



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