「自分」を作っているものを解く  Ⅲ 執着しているものに気がつく

目 次

Ⅲ 執着しているものに気がつく

それでは、執着や思い込み、固定観念を解くにはどのようにしたら良いかということについてお話いたします。

執着や思い込み、固定観念を解くためには、初めに自分がどのような執着や思い込み、固定観念を持っているのかを知ること、それに気がつくことが必要です。
どのようにしたら気がつくことができるか、つぎの3つで説明いたします。

1. 瞑想をしているときの雑念
2. 日常生活で繰り返し思う事
3. 性格やクセ

1. 瞑想をしているときの雑念

瞑想を行なうとき、たいていの場合は、

「雑念が出てはいけない、出ないようにならなければいけない」
「雑念が出たら打ち消して瞑想にもどる」

というように、雑念は瞑想には邪魔なもの、払い除けるべきもの、雑念が出るうちはまだ瞑想ができていない、と教えられているか、あるいはそういうものであると思い込んでいるのではないかと思います。

しかし、瞑想での雑念の中には、「わたし」という個我を作っている「執着や思い込み、固定観念」に起因するものが現れている場合があります。
そのため、雑念は、自身の「執着や思い込み、固定観念」に気がつくためのきっかけのひとつになり、雑念を観ることから「執着や思い込み、固定観念」を解いていくことができます。

雑念を追い払ったり観ないようにしてしまうことは、「わたし」を作っているものから目を逸らしてしまうことになります。
雑念から、自分はどういうことを辛いと感じているのか、どういうことにこだわっているのか、どういうことから心が離れられずにいるのかということなどに気がつくことができると、そこから「わたし」を作っているものが観えてきます。

瞑想をしているときには、つぎのような雑念が出てきます。

「今日の夕食はカレーだから、あれとあれを買わなければ」
「明日の社内の商品説明はこういうふうにしよう」
「この前食べたパフェがおいしかった。また食べに行こう」
「昨日Dさんとこんな会話をした」

そのようなことが次から次へと出てきて、いつの間にか初めに考えていたこととはまったく違うことを考えていたりします。そうやって雑念に引きずられてしまいます。
このような雑念は、単に行為や出来事、情景に関するもので、感情がともなうものではありません。

「夕食の材料を買った」
「説明が終わった」

というように、気になっていたことややるべきことをやり終えると、あとは忘れてしまうようなものです。

「パフェがおいしかった」
「Dさんと会話をした」

というようなことも、瞑想を終えて現実生活に戻ると、別のことに思考がいってまったく気にならなくなってしまうような事柄です。数日間それらのことを思い出したとしても、いずれ記憶は薄れてしまうか忘れてしまい、新しく気になっていることややるべきことに移っていくような事柄です。

そのような雑念は気にかけることはなく、流して観ていたり、気がついたら雑念から離れてもとに戻すと良いものです。

しかし、そうした雑念の中に、「感情」をともなうものがある場合があります。
たとえば、

「上司のEさんは何事にも厳しい人で、わたしはいつも怒られて認めてもらえないため、心が傷ついて辛く、瞑想をしている間ずっとその辛く苦しく悲しい感情が堂々巡りをしている」

「わたしは小学生のときに信用していた親友に裏切られたうえ酷いことをいわれてとても傷ついたことがあり、そのときのことがずっと心に残っていてよく思い出す。瞑想をしていると、裏切られたときの悲しみや腹立たしい思い、人間不信からくる恐れなどの感情が湧いてくる」

というようなものです。
このような雑念は、時間の経過と共に忘れてしまうものとは違い、瞑想をするたびに「いつも」「繰り返し」出てきます。
気がつくといつの間にかまたそのことを思っていて、ああでもないこうでもないと堂々巡りをしています。

いま現在、自分に起きていることに関する感情であったり、あるいは、現在はもうその出来事は自分には起きていないのに、感情だけがずっと残っているという場合もあります。

「上司のEさんとの関係」に関する「辛く悲しい感情」、「小学生の親友との関係」に関する「悲しみ、怒り、恐れの感情」というように、「同じ事柄」に関して「同じ感情」が繰り返し出てくるもの、それが執着しているもの、あるいは思い込みや固定観念になっているものです。

瞑想をしているときに、このような「同じ事柄」に関する「同じ感情」でいつも出てくるものがあって、それに気がつくことができたのであれば、それがいま自分が解くべきものです。

このように「繰り返し」出てくる事柄や感情、そして、「その感情から離れられないもの」は、今生で起きていることだけが原因となっているものなのではなく、前生で同じような辛く悲しい出来事や怒り、恐れを持った経験があり、そのときに執われた感情がいま解けようとして表面に現れてきているものなのです。

いま、自分に何か大変なことが起きていて、辛い、苦しいという感情が出てきているとしたら、それは解くべきものが表面に浮かび上がってきているということなので、ただ嘆いたり、落ち込んだり、悲しんだりするのではなく、それを解くとてもいい機会だということに気がつくと良いと思います。

瞑想を行なうことで、日常生活では自覚をしていなかったり、気がつかなかったりしている自分の感情や執着していることを、はっきりと識ることができます。

なお、憎しみや怒りなどの否定的な感情だけではなく、楽しい、幸せ、好きといった肯定的な感情であっても、それにしがみつくと執着になります。
自分に起きた出来事を、単なる現象としてとらえていると執着にはなりませんが、そこに強い感情がともなうと執着になります。

2. 日常生活で繰り返し思う事

「同じ事柄に関する、同じ感情」というのは、瞑想のときだけではなく、日常生活でも心を占めていることがあります。

「隣家との揉め事が長年つづいていて、毎日腹立たしい思いと不安感がある」
「不注意で事故を起こして人に取り返しのつかない怪我をさせてしまった。罪悪感とああしておけばよかったという後悔の念がずっとあり、気がつくとそのことを考えている」

このようなものですと、当然瞑想を行なったときにこれらに関する感情を感じるはずですが、瞑想を行なう時間があまりなくて瞑想では気がつきにくい場合や、瞑想で感情に気がつくということがどういうことかわからないという場合の例としてあげました。

この例の場合も、日常生活の中で「隣家」や「事故を起こした」という「同じ事柄」に関して、「腹立たしい思いと不安感」や「罪悪感と後悔の念」という「同じ感情」が、気がつくといつも堂々巡りをしています。

こうした、同じ事柄に関してフツフツと思い出される同じ感情は、人と会話をしているときや家事をしているとき、仕事を一休みしているときなどに湧いてきます。
また、他のことを考えていても、いつの間にかそのことに結びつけて考えていたり、つねにそのことが心にしこりのようにあったり、あるいは、はっきりとした自覚はないのだけれども、つねに同じ事柄に関する同じ感情をモヤモヤと感じていたりするということもあります。

それらは、幼いときの体験によって持っている感情であったり、大人になってから体験した事故やトラブルなどをきっかけに感じるようになった感情であったりします。

このような、日常生活の中で同じ事柄に関して繰り返し出てくる同じ感情、それが執着しているものであり、思い込みや固定観念になっているものです。

こうした執着や思い込み、固定観念は心の苦しみの原因になっていますが、それらによって苦しんでいることすら自覚していないこともあります。
自分はそんなことはまったく気にしていない、執われてなどいないと思っていても、気がついていないだけで心の底では苦しんでいるという場合があります。
さらに、それらが自分が選択・決定することに大きく影響しているということにも、なかなか気がつきにくいものです。

瞑想をしているときは感情的なことは何も湧いてこないし、雑念もあまりないというときは、日常生活での自分の心の感じ方や反応のしかたに気がつくようにすると、自分が執着していることや思い込んでいる事柄、固定観念がどのようなものであるかがわかってくると思います。

3. 性格やクセ

性格やクセから「自分」を作っているものに気がついていくことは、そこに感情がともなわない場合も多いですが、気がついていきやすいものでもあります。

偏った考え方や固執している考え方、特定のことに反応する感情などから自分が執着していることや思い込み、固定観念が見えてきます。
自分の間違いを指摘されると感情が高ぶって反発し、相手を許せなくて自分が絶対に正しいと主張する、「自分はできない」といつも初めから尻込みをしてしまうというような場合は、何かしらの固執しているものがあるからです。

自分の性格やクセというのは、自分では気がつきにくいことも多いですから、人から指摘や注意をされたこと、人と頻繁にトラブルになることなどは、何か偏ったり固執した考え方を持っているからかもしれないと思って、性格やクセを見つけるいい機会だと捉えると良いと思います。

瞑想で感情的なことは湧いてこない、何かに執着しているようなことも思い当たらないという場合は、自分の性格やクセを観ていくことから始めると良いと思います。

「わたし」を作っているものは何か

自分が持っている執着や思い込み、固定観念を知るために、3つのことからお話してきました。

「自分は執われているものなどない」
「自分がそんな思いを持っているはずがない」
「自分はすべてできている」
「自分は正しい・間違ったことをしていない」

「観る」以前からそう思い込んでいると、その先を観て行こうとしないので本当のことを知ることは難しいですし、「自分」を作っているものを解いていくこともできません。自分で認めたくなかったり観たくなかったり触れたくなかったりするものがあるため、そうした思いで必死にフタをしたり正当化したりしています。

人は執着や思い込み、固定観念をたくさん持っているものです。
いま自分は幸せで悩みもないしトラブルもない、といっても執われや思い込み、固定観念が何もないということではありません。幸せでトラブルが何も起きていなくても、人は「自分」を作っている執着や思い込み、固定観念をたくさん持っています。
フタをしたり正当化したりして直視することから心を逸らしていないか、「自分はできている、自分は正しい」といつの間にか傲慢になっていないか、注意深く観ていく必要があります。

『「わたし」を作っているものは何か』と探していくことができると、自分の執着や思い込み、固定観念を見つけていくことができます。

男性と女性の感受性の違い

若い男性は物事を感覚的にとらえる方が増えてきているように思いますが、男性は概ね物事を理論や理屈で考える傾向があります。理論や理屈で考える傾向が強いと、自分の感情に気がつくことが難しい場合があります。
その場合は、「繰り返し出てくる感情」とか「同じ事柄に関する、同じ感情」ということが感覚的にわかりにくく、瞑想で執着や思い込み、固定観念を「観る」ことが非常に難しいため、理解するまでに時間がかかります。

また、自分を固い鎧で囲っていたり、感情を強く抑圧している場合は、自分の内側を観たり心を感じたりすることが難しいですし、自分が弱いとか間違っているということを認めたくない、自分に都合が悪いことは観たくないという思いがある場合は、心を直視することに抵抗があるため、いつまでも本当のことを識ることができません。

そして、理論や理屈で考えるため、ともすると「いま自分はこういう行動をしている」とか「いま自分はこう感じている、考えている」というように、自分の行動や思考を客観視することが「観る」ことであると混同したり勘違いをすることがあります。それで自分は「観る」ことを理解している、「観る」ことができていると思ってしまっています。

自分が一番でありたいという思いが強い人は、まだ本当にわかっているわけではないのに、「自分は観ることがどういうことかわかった」、「自分はもうできている」と早々に思いたがることがありますから、そのようなことがないように気をつけなければいけません。

わたしは今まで、上記のような男性の例を何人も見てきました。
外側の殻がとても固いということや感情を抑圧している可能性があるということ、自分に都合が悪いことを認めたくないと抵抗している場合があることなどを自身で自覚すると、意識的にその観念を捨てていくことができると思います。

「感情を感じる」ことが難しい場合は、物事や出来事に対する自分の心の反応の仕方を瞑想で観るようにして、自分がどのように反応しているかということを感じるようにしていると、しだいに「自分」を作っているものが観えてくるようになります。

女性は物事を感覚的に捉える傾向があります。また、出来事を感情的に捉えることが多く、感情の起伏が大きく、感情表現が豊かで、感情を表に出している場合も多いです。そのため、女性は自分の感情をすぐにはっきりと自覚しやすいです。

そして、その感情を「そのまま感じる」ことや「観る」ことがどういうことであるかを非常に早く理解できます。また、「観る」ことに関して、女性は非常に柔軟で開放的であるように思います。そのため瞑想を始めてすぐに感情を観て解放し、執着や思い込み、固定観念を解いていくことができる方が多いです。

しかし、解くことができているにもかかわらず、解けたことが霊的な成長や苦しみからの解放とどう繋がっているのかということがなかなかわからないため結びつけて考えられなかったり、「観て解く」ことがどれだけ大事なことであるかに気がつかずに、ほんの少し解けたところで辞めてしまったり、気がついていなかった自分の感情に出会って、「自分にこんな感情があったのか」と驚いて、その先に進むことを躊躇したり怖がったりすることがあります。

女性はそのような傾向がありますから、感情を解放しやすいのだということを自覚して、いま自分が解いていることはどのような大事なことかということを理解するようにすると良いと思います。
もし先に進むことに躊躇したり怖いと感じたりしたら、「いま自分は先に進むことを怖がっている」と怖がっている自分を客観的に眺めて、「怖い」という感情そのものを感じるようにしていると、少しずつ怖い思いが解けて、躊躇したり怖がったりしているところを超えて先に進んでいくことができるようになります。

何かとても強く大きな感情が現れてきそうで怖いと思い、その先に進むことができなかったけれど、その執われていたものが実際にわかってみると、ほんの小さなことだったということもあります。

鎮まった心

瞑想を始めたばかりであるにもかかわらず、心が非常に静かで感情の波がまったくなく、呼吸も深く安定していて、悩みや混乱といった動揺もなく、かすかに靄がかかった静寂というような心の状態の若い方がいらっしゃいました。その方は、前生でも瞑想や修行を行なっていたため、このように初めから心が鎮まっていました。

この方は、感情が湧き出てきたり、動揺して心が大きく揺らぐということもなく、また、極端な性格やクセというものも見当たらず、何かトラブルを抱えているということもありませんでした。

初めからここまで鎮まっている方はなかなかいませんが、このような場合は、「感情を観る」とか「執着や思い込み、固定観念を解く」ということを行なわなくても、心が鎮まった瞑想をそのままつづけているといいです。

自分に何かのトラブルが起きていて、心が動揺して感情が大きく動いている場合は執着しているものを見つけることが容易です。そうでなければ瞑想を始めたばかりのときというのは、執着している感情がすぐにわかるということはありません。
その場合は、アジナーチャクラに集中したり、自分のすべてを神様あるいは宇宙に委ねる瞑想を行なっていると、しだいに「自分」を作っているものに気がついていくことができます。

「Ⅳ 解放するには」




「瞑想の基礎」      Meditation 1
「個人セッション」    個人セッション
「ご質問・お問い合わせ」 お問い合わせ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加