光の粒子
瞑想を行なっている中で、わたしは本当にたくさんのビジョンを観ました。
そのうち特に印象に残っているものに、光の粒子の意識があります。
瞑想を始めて3年くらいが経ったとき、
『過去と未来のすべてを見渡していて、「今」であると同時に、過去と未来のすべてである』
という意識になりました。
そこには「時間」がありませんでした。
「時間はもともとないもの」で、すべてはひとつでした。
だから、霊視で過去のことを観たり、未来のことを観ることができるのだと思います。
それから間もなくして、
宇宙が金色の細かい光の粒子として観え、
「わたしはその粒子の1粒であり、同時に全体でもある」
という意識になりました。全体というのは、宇宙です。
個である「自分」がなくなってきたことで、宇宙全体と一体になってきたのです。
そのとき、
「現象の世界のすべてのものは、この光の粒子でできている」
ということがわかりました。
木の机であっても、水であっても、草木でも、さらに人間も。
現象(物質)世界にあるものはすべて同じ光の粒子でできていました。
物質と人間と他の生物と、それぞれ別なものではなく、すべては同じ光の粒子でできているのでした。
それからさらに1年がたったとき、その光の粒子がさらに細かいものになり、同じように、
「わたしはその粒子の1粒であり、同時に全体でもある」
という意識になりました。
そのまた1年後、2回目よりもさらに細かい微粒子になりました。
2回目の光の粒子の1粒は、1回目の光の粒子の1粒を構成しているさらに微細な粒子であり、3回目の光の粒子の1粒は、2回目の光の粒子の1粒を構成しているさらに微細な粒子です。
粒子が細かくなっているのは、わたしがさらに「自分」がなくなってきているためであり、そして、より深い意識に目覚めてきていることによるものでした。
粒子が細かくなるほど、エネルギーは緻密になり、また滑らかになります。
粒子の大きいエネルギーの人は、発しているエネルギーが荒くガサガサしています。
光の粒子の意識は、この3回で終わりました。
わたしは、その後も瞑想を行ない、「自分」を捨てることをつづけていきました。
それ以降はこの光の粒子の意識になることはありませんでしたので、これでもう終わったのだろうと思っていました。
それから30数年がたったとき、それは、わたしがある人のことを非常に強く心配していて、そのことに執われていたことを解いたときでした。
それが解けたとき、ひさしぶりにまた細かな光の粒子の意識になりました。
それはやはり前回の粒子よりもさらに微細なものでした。
あの粒子よりもさらに細かい粒子があったとは……。
おそらく、この光の粒子は、物理学でいう「分子」、「原子」、「原子核」、「素粒子」と同じものなのではないかと思います。
今回、これを記載するために調べてみると、物理学で、
「すべての物質は素粒子からできている」
とされていました。
初めて光の粒子の意識になったとき、
「現象の世界のすべてのものは、この光の粒子でできている」
と知ることができたことと、同じことをいっているのだと思います。
わたしは物理学の知識があったわけではないので、物理学の研究の詳しい内容は知りませんでしたが、瞑想によって宇宙意識と一体になり、知ることができました。人間も、「個我」をなくすと宇宙意識になれるということです。
4回目の微細な粒子の、さらに先があるのかどうか……、今はまだわかっていません。
光の粒子と人の意識の関係
四角い木枠の中に、ビー玉をすきまなくビッシリ並べて、そのうちの1個を取り除くとそこに空間ができます。
そのあいた空間に右隣にあるビー玉を移動すると、それまであった右隣の場所があいて、そのあいた場所にまた他の隣接するビー玉を移動することができます。
15ゲームのようなかんじです。
そうやっていくつかのビー玉を順次移動していくと、一番最初の全体のビー玉の配置と、移動したあとの全体のビー玉の配置というのは変化しています。
15ゲームで、初めはアットランダムに並んでいる数字を、移動して1から順番に並べると、初めのアットランダムな並びのときと、数字が順番に並んでいるときとでは、数字の関係性が変化しています。
はじめは隣にあった数字が今は2マス離れたところにあったり、離れていた数字が今は隣にあったりします。そうやって、数字どうしの関係性が変わっています。
それと同じように、空間の右隣にあったビー玉は、上下や右側のビー玉と接触していましたが、空間に移動するとそれまでの上下や右側のビー玉とは離れて、今度は左側のビー玉や新しい上下のビー玉と接触する(関わる)ことになります。
ビー玉どうしの関係性が変わります。
光の粒子は、わたしにはそれと似たようなものに感じられます。
光の粒子は固定しているわけではなく、1つの粒子が移動をして変化すると、全体の関係性が変わります。
粒子は関わり合っていて、1つが動くと他も変化します。互いに関係しています。
それはそのまま人間に当てはめることができます。
強い執着を持っている状態では、光の粒子がギュッと凝り固まっているような状態になります。エネルギーが凝り固まっています。
執着が解けると、凝り固まって黒くなっていたものが光の粒子にもどることで、その周りにあった光の粒子と混ざりあうなどして、関係が変化します。
そうなったとき、人間世界での関係性にも変化が起きます。それまで相手に対して非常に強い怒り、不信感、怖れ、憎しみなどをいだいて、その感情に執われていたとすると、その感情を解くことによって、執着で黒く凝り固まっていたものが光の粒子になり、周りの粒子との関係性が変化し、それが自分と相手との関係の変化になっていきます。
怒りや不信感、憎しみを向けると、向けられた人は向けた人に対して同じような感情を持つものです。向けた人にその感情がなくなると、向けられた相手もその感情が消えてしまうということは、知識で知っていたり経験があったりすると思います。
今まで敵視してきていた相手が、相手ほうから好意的に接してくるようになることもあります。自分が変わると、相手との関係が変わります。
これは、事故にあったことに強く執われているときなどでも同じです。
自分の中から事故のときの恐怖心がなくなると、今まで恐怖心に強く執着していたために「事故に遭う」ということが起き続けていたのが、自分の思いが解けることで関係が変わり、自分と「事故に遭う」こととの関係性が消えてしまい、事故に遭うということが起きなくなります。
執着しているものを解くということは、光の粒子の世界で見るとこのようなことが起きていることになります。
執着しているものを1つでも多く解き、自我を解放していくことで、光のみの意識になっていくことができます。
そして、この光の粒子は、人の意志によって変えることができます。コントロールできます。
それは、意思によって粒子を物質に変えたり、物質を粒子に変えたりするのと同じようなことです。
意思で、何もないところからペンや食べ物のような物質を作り出すことは現実的には難しいことですが、「自分自身と自分の周りの現象や関係はすべて自分が作り出している」ということが、これと同じ意味になります。
わたしたちはすでに、そして常に、意思で物質を作り出すことと似たようなことを行なっているのです。